時代とともに変化したサーキットを辿る「富士スピードウェイ編」前編

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2020年6月24日

サーキットではなく“スピードウェイ”としたのはオーバルコース計画の名残りとも言われている富士スピードウェイ。すでに廃止となったが30度バンク等の特徴的なコースレイアウトでオープンに至った。

 長く歴史を重ね、大きな変化を届けてきたサーキットの紹介は、今回から富士スピードウェイのパート。鈴鹿サーキット同様に2回に分けてお届けしたい。このサーキットの歴史は3期に分かれている。30度バンクを使用した6kmの第1期、そしてバンクを使わなくなった4.3kmの第2期、そして現在に至る第3期といった具合だ。

 当初の予定図を見ると、富士スピードウェイはかなりオーバルコースに固執していたと思いがちだが、実際にはそうではなかった。わずか1年ほどで構想は一気に変化を遂げる。

 富士スピードウェイ誕生の経緯は、当時、建設大臣を務めていた河野一郎氏の「長時間の高速走行が可能な国産車の開発に、サーキットが必要だ」という思いによるようだ。折しも、名神高速の建設中だった。

 そして懇意にあった商社会長が呼応し、ともに広めていった思いをキャッチした米NASCAR社が、後にシャドウF1チームのオーナーとなるドン・ニコルズ氏を介して接触。これがきっかけとなって、1963年の12月に日本ナスカー株式会社が設立される。

 年が明けて間もなく、富士急行が静岡県小山町に(すなわち現在の場所であるが)サーキット作成のための土地斡旋を要請。後ろ盾に河野氏がいたこともあり、話はトントン拍子に進んで、6月には小山町と日本ナスカーの契約が結ばれる。

 7月にはNASCAR社のチャールズ・マニー・ペニー氏による最初のコース設計図が作成され、それが1周4kmのオーバルコースだった。だが、その一方で日本ナスカーは元F1ドライバーである、スターリング・モス氏を招聘。

 モス氏による最初の指摘は「地形がオーバルコースには向いていない」であった。これがどれだけ的確であるかは、グランドスタンドから現在のヘアピンが見下ろす位置にあることですぐに理解してもらえるだろう。どうあれ丘陵地にオーバルコースを設けるのは無理があった。

 そこでモス氏のアドバイスに沿って、6kmのいわゆる第1期コースが設計されることになるが、こうなればもうNASCAR社との関係は不要になる。一説には契約料の高さも理由ともされ、1965年の2月には契約を解消し、同時に社名も富士スピードウェイ株式会社に改められる。そして3月には着工を開始し、12月には完工。1966年の1月から営業が開始され、3月にはレースが開催される。

 ここでひとつ疑問が残る。なぜ30度バンクが設けられたのか、と。最初の設計図の名残りであるのは間違いないが、アメリカのオーバルコースでのレースを経験していないモス氏は「フラットなコーナーにすべきだ」と意見したという。だが、既存の鈴鹿サーキットにせよ、船橋サーキットにせよ、これだけの高速コーナーはない。モス氏のアドバイスを押し切ってまで、富士スピードウェイ最大の特色としたかったのだろう。

 ただNASCAR社のノウハウがあってこそのバンクであるだけに、製作には困難を極め、ロードローラーを上からワイヤーで引っ張っていたのだとか。そのため当時の写真でもはっきり分かるほど、三本の舗装の継ぎ目があり、またうねりもあって決して滑らかな路面ではなかったという。

 そこを現在の1コーナーあたりから、飛び降りるような格好でアクセル全開のまま進入していくのだから、当時のドライバーは「頭のネジが抜けていた」という表現にも納得がいく。

 いずれにせよ1.6kmのストレートを経て、30度バンクを伴う1コーナー、続くS字、100R、ヘアピン、そして最終コーナーという、いたってシンプルなレイアウトは、ヘアピン以外にハードなブレーキングを要さなかったはず。

 そんな超個性的な6kmの第1コースは1974年まで使用された。というよりグランチャンピオン(GC)シリーズ第4戦で、日本レース史における初めての複合事故、大惨事が発生した6月2日以降、30度バンクは使用されていない。一応、今もモニュメントとして残しているのは、当時の無謀な試みへの戒めなのかもしれない。

ナスカー形式のレースを開催するため、オーバルコースで想定されていた富士スピードウェイ。地形的に建設が難しいことから、このレイアウトは白紙となった。

イラスト/高梨真樹 レポート/はた☆なおゆき、JAFスポーツ編集部

※参考文献:「情熱、挑戦、創造 クルマ文化に夢のせて」(トヨタ自動車)、「モータースポーツ百科」、「サーキットの夢と栄光 日本の自動車レース史」(グランプリ出版)、「サーキット燦々」(三栄書房)

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