時代とともに変化したサーキットを辿る「鈴鹿サーキット編」前編

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2020年6月18日

F1を始めとする各種レースが行われるサーキットとして有名な鈴鹿サーキットは、紆余曲折を経て現在の形となった。なぜ鈴鹿の地にできたのか、コースはどのように決まったのか、その歴史を紐解いてみた。

 現在、国内では8サーキットでJAF公認レースが開催されている。そのうち歴史の長いサーキットは、特に安全面を重視して、何度かコースレイアウトを変化させてきた。もっとも、二輪用シケインを加えただけで、1970年の創設以来、四輪レース的にはまったくレイアウトに変化のない筑波サーキットという例外はある。

 変化を重ねたのは鈴鹿サーキットと富士スピードウェイ、そしてスポーツランドSUGO。それぞれの変化を数回に分けて、歴史を交えて紹介していくことにしよう。

 鈴鹿サーキットが彼の地に設けられたのは、親会社であるホンダの工場が三重県鈴鹿市にあったからだ。今でこそ交通の便に優れ、名古屋に近いという利点もあるが、当時は東名や名神といった高速道路がなかった時代である。

 東京からのアクセスは最悪にすら感じられる場所に設けられた理由は、ホンダと行政の関係が非常に良好だったからに他ならない。また地域貢献を重視した、ホンダ創始者である本田宗一郎氏による鶴の一声でもあった。

 場所こそ決まったものの、当時は舗装されたサーキットが国内に存在せず。そこでノウハウを海外に求めることとなるのだが、あらかじめヨーロッパ的なレイアウトとすることだけは決まっていたという。そこで1960年(昭和35年)の12月、設立準備スタッフは渡欧し、ニュルブルクリンクやホッケンハイム(当時の西ドイツ)、スパ-フランコルシャン(ベルギー)、モンツァ(イタリア)などを視察。

 ちなみにコースデザインの経過を見てもらえば分かるとおり、それ以前にも原案が設けられているが、すでに原案でも東西に長いレイアウトは決定づけられている。というのは、得られた土地の形状によるところが大きい。

 今もなお世界中のサーキットを知る、F1ドライバーたちをも唸らせる屈指のテクニカルレイアウトも、土地そのもののアップダウンを活かした必然、という点も実に興味深い。想像するに、削り取るなりカサ増ししたのは、立体交差のあたりだけなのではないか。

 余談ながら、地形を活かしたという大前提は、同じホンダが親会社であるツインリンクもてぎとは好対照。もてぎは山を削り、谷を埋めて作られている。鈴鹿よりもはるかにフラットであるのは、そういったあたりが背景にある。

 いずれにせよ、鈴鹿は視察後に修正案が出された数日後、ザンドボールドのマネージャーを務めるオランダ人のジョン・フーゲンホルツ氏によるアドバイスによって、現在に至るレイアウトがほぼ決定する。あとは先にも記したとおり、地形に合わせて微調整されていったわけである。

 1961年6月に工事を着工、そして1年3か月を経て1962年9月に完成。以来、鈴鹿は基本となるレイアウトをほぼ改めていない。だから60年代のドライバーが見ていた光景を、ほぼ今も見ることができる。施設が改められ、観客席などは増設されたが、コースだけに集中していればそうは変わらない。

 最初のレイアウト変更は、ご存知のとおりシケインの新設だ。富士の最終コーナー入口に設けられるより1年早い1983年に誕生し、2010年まで「カシオトライアングル」と呼ばれていた。最終コーナーからホームストレートを高速で駆け抜けていく迫力こそ欠いたが、フルブレーキングからの切り返し、何より縁石をまたいでクルマがフッと浮く光景は、それまでのレースシーンには目新しく、違った魅力を加えたものだ。

 なお最初に行われた路面補修は1977年。何しろ国内初のサーキットであったことから、アスファルト路面の作成には相当な試行錯誤があったのは間違いない。それが15年もの間、耐え続けたというのが驚きだ。次回は、84年以降の改修について紹介したい。

鈴鹿レーシングコース計画案では、今日のサーキットよりも北東の場所だった。これは計画案の土地が水田だったため、本田宗一郎氏が「お米のできる田んぼを潰すな!」というひとことによるという。
1962年9月に完成するまでの間、海外の視察やさまざまなアドバイスを経てコースレイアウトが決定されたことがうかがえる。

イラスト/高梨真樹 レポート/はた☆なおゆき、JAFスポーツ編集部

※参考文献:「明日への道標 モビリティランド50周年記念誌」(株式会社モビリティランド)、「モータースポーツ百科」(株式会社グランプリ出版)、「サーキット燦々」(株式会社三栄書房)

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